子供の行事と親心

こんばんは。

かざねっこです。

本日の題名は『子供の行事と親心』です。

 

暑いですね。

先週末に少々ありまして

いろいろと考え事をしておりました。

どういうわけか

なかなかうまく言葉がまとまらず

乱文となっておりますが

お付き合いいただけると嬉しいです。

 

とある平日。

運悪く子供の行事が重なって

一人でこなすのは無理だと判断した私は

主人に休みを取ってもらった。

そして、まずは一つ目

保育参観。

晴天なら外

雨天ならホールで行うとのこと。

その日は朝から恐ろしいほどに

お日様が輝いていたから

てっきり外で行うのものだと

心積もりしていたら

ホールで行うとの連絡がきた。

理由は熱中症警戒アラームが

発令されたから。

なるほど、これからは

雨が降っているから、じゃなくて

暑すぎるからという理由で

室内になるということもありうるのね

と頭の中にメモをする。

 

参観時間に合わせて

主人と末っ子と三人で保育参観へ行く。

末っ子は相変わらずの人見知り。

園庭に入る前から主人にしがみつき

主人が抱っこすることとなった。

今回の参観は七夕まつり。

踊りを披露してくれるのだ。

家ではあまり

踊って見せてはくれないものの

毎日帰ってくる度に

踊りの練習報告をしてくれて

やれ、名人になったのなんだの

張りきっていたのだった。

太鼓の音に合わせて

色とりどりの浴衣を着た子供達が

駆け足でホールに入ってくる。

皆、今日はいつもよりめかし込んでいて

おかげさまで、私も朝から

髪のセットに浴衣の着付けにと

大忙しであった。

髪のセットなんて

子供を生む前は

一つにまとめるのがせいぜい

三つ編みは他人(ひと)の髪で

なんとなくできる?くらいで

全くといっていいほど

興味など無かったのだけれど

まあ、子供を生んでからは

「興味がない」の一言で

ばっさり切り捨てるわけにもいかず

これをやれだのあれをやれだの

髪のアレンジの本を持ってきては

口うるさく要求してくる我が子を宥めるため��

子供が持ってきたその本から

なんとか出来そうなものを探してみたり

はたまた、ネットで検索してみたり。

気付けば、今では周りに

『今日はちょっとおめかししていますよ?』

と匂わせるくらいの髪型が

できる位の腕前にはなったのではないかな

と勝手に思っている。

そして、浴衣の着付け。

高校のときに家庭科の授業で

習ったことはあるけれど

本当に下手っぴで

先生に、何度も

やり直しをさせられた覚えしかない。

というか、そもそもあの頃は

自分の人生において

浴衣の着付けができるということに

特段、意味を見出せていなかったから

本当に覚える気がなかった。

それが今や、

髪をセットし、浴衣まで着付けてる。

子が成長してゆくように

親もその折々で成長していくのだと思う。

 

我が子が音楽に合わせて踊る。

生き生きと踊る我が子を見ているのは楽しい。

そして、ふと

あんなに小さかったのにな

なんて過去を振り返ってしまえばもう

目にうるりとくるものがあり

最近、涙脆くなったな

などと苦笑い。

とある大会で優勝したときだって

大学に合格したときだって

結婚式のときだって

今までの人生で

嬉しいと感じたことは

それなりにあったけれど

そのことで泣いたことなんて

一度もなかったのに

子供の成長する姿を見る度に

その姿が嬉しくて

泣きそうになる。

ただ、可愛い、可愛い

だけじゃすまないのが子育て。

いっぱい悩んで

いっぱい泣いて。

でも、その日々が

決して無駄ではなかったと

子供たちがその身をもって

教えてくれるから。

それは、混じり気のない

生粋の『嬉しさ』とはまた違う

もっと色んな感情を混ぜ込んだ

特別な『嬉しさ』なのかもしれない

そして、最近はそこに時折

一抹の寂しさが伴ったりもする。

早く手を離れて欲しいなんて

いつも口にしているくせに、ふと

その小さなままで

腕の中に閉じ込めてしまえないかしら

なんて、勝手なことを思っている。

あまりにも近すぎるから、疲れてしまう。

でも、離れてゆくのは寂しくて

私の気持ちはその間を

行ったり来たりしている。

きっと、そうしているうちに

子育ては終わっていくのだろう。

子供達が親離れしてゆく頃には

私自身もちゃんと遅れず

子離れできていたらと思う。

 

子供の踊りが終わったら

最後は保護者も参加で

一緒にダンス。

子供の動きを参考に

音楽に合わせて体を動かす。

ピョコピョコ踊る子供を横目で見ながら

この時間が長く続いて欲しいと

心の中で密か願う。

 

午後からは個人懇談。

その日はなかなかに蒸し暑く

ちょっと散歩がてらと

歩いていったら

教室についた頃には

すっかり汗だくになっていた。

前の方の面談が

予定より早く終わっていたようで

着いて早々、先生から

子供の学校での様子を聞く。

多少の心積もりはしていたものの

予感は的中。

こちらが把握していなかったことが

ちょこちょこと出てくる。

教室は冷房が効いていて

せっかく汗がひいてきていたのに

違う意味での汗が

背中にたらり。

なんというか、まあ

なかなか目が行き届いていないのは事実。

ただ、ただ・・・。

むむむと唸る。

面談が終わり

主人に迎えに来てもらう。

主人が運転する車に乗りながら

我が子のことを考える。

私には三人の子がいる。

どの子も可愛い。

ただ、三者三様。

よって、自分との相性というものがある。

私はいまだに

この子の心を汲み取ることができない。

この子はなにを望んでいるのか。

この子をどう育ててゆけばいいのか。

すこしでも手がかりが欲しくて

時折、本人に聞いてみる。

「あなたは、どうして欲しい?」

「わからない」

本人がわからないのであれば

私には到底、わかるはずもない。

ただ、考えてみれば

この子はもともと

自分の考えを言葉に表すのが苦手な子。

それに、まだ

その問いに答えられるほど

いろいろな経験を積んでいないのかもしれない。

だから、自分の経験を元にして

よかれと思うことをやってはみる。

やってはみるものの

いつも頭のどこかで

違うのではないか?

という不安と隣り合わせになる。

だって、この子は

私ではないのだから。

 

どの子にも

幸せになって欲しいと思っている。

でも、親が子に願う幸せと

子が自ら思う幸せが同じとは

限らないのではないか。

幸せの形は様々だ。

現に私だって

今の、このような形の幸せを得られるとは

夢にも思っていなかったのだから。

それならば、私は

私が思う幸せを得られるように

子供を育てていいのだろうか。

それは、違う気がする。

ならば、なにをもって子供らを

育ててゆけばいいのだろう。

そんなことを考えていたら

段々わからなくなってきて

耐え切れなくなった私は

車を運転している主人に

そのとき考えていたことを全部話してみた。

「まあ、子育てに正解はないからね。

 その時々の子供の状況に合わせて

 やっていくしかないんじゃない?」

主人の言葉に「まあ、それはそうなのだけれど」

と相槌を打ちつつ

それじゃあ、結局、どうすればいいんだ?

と悩む私。

「答え合わせは何十年先って言うからね」

という言葉に、たまらず

「子育てって難しい・・・」とぼやいたら

「なにを今更・・・」

と呆れられた。

ふと、昔もこんなことがあったな、と思う。

子供を生んですぐのこと。

結婚する前から

なんとなく、こんな子育てができたらいいな

みたいなものはあった。

けれど、実際に生んでみたら

本当にそれでいいのか分からなくなった。

小さな命を目の前にして初めて

自分がこの子の人生に与えるであろう

影響力の大きさに怖じけづいた。

育児書を片っ端から読みあさって

答えを探した。

でも、結局、わからなかった。

この子はこの子。

答えは多分、この子の中にしかない。

それから、ずっと探し続けている。

 

このままだと

思考の沼から

出られそうもないので

頭を切替え、とりあえず

今回、ちょこちょこと

あらわになったものたちを

片付けることにする。

主人と子供と話し合い。

毎回、こうして何かある度に

少しずつ変えていく。

うまくいくかはわからないけど。

少しでも、この子の答えに近づけるなら。

 

手がかかる子ほど可愛いと云う。

本当にそう。

みんな、可愛いのだけれど、ね。

あなたの成長してきた

その軌跡一つ一つを

ママはしっかり覚えているんだよ。

 

 

最後までお付き合いいただき

ありがとうございました。