とても素晴らしい本です。
「急に具合が悪くなる」
宮野真生子 磯野真穂著 晶文社
哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂の往復書簡。
2019年4月から7月まで。
たった4ヶ月だが、とても濃厚な書簡の遣り取りだ。
往復書簡をはじめたとき、宮野はすでにガンがあちこち転移していた。
患者としての振る舞い方。生きるとはどういうことなのか。罹患したのは偶然なのか、宮野と磯野の出会いは偶然なのか。そんな対話が続く。
宮野真生子は、2019年7月に亡くなっている。
私がこの本の存在を知ったのは、2024年5月。どこかで紹介されていたので興味を持った。でも、ガン患者との対話なので、内容が苦しかったら嫌だな、そうしたらすぐに読むのをやめよう、などと思っていた。
しばらく読んでいくと、あれ?と気づいた。
宮野は九鬼周造の研究者だ。あ、そうだ、どうしてこの本をチェックしていたのかを思い出した。九鬼周造だ。この本を紹介していた誰かが、九鬼周造と偶然について触れていたのだ。すっかり忘れているという、恐ろしさ。
ちなみに図書館で借りたのである。
そして「偶然と運命」についての語りがはじまった辺りで、この本を購入することに決めた。これで思いっきり線を引きながら読書できる。
私自身、「運命」とか「偶然」とかに非常に興味を持っている。私の仕事(タロット占い師)自体が運命に関わるものである、ということもある。が、仕事云々ではなく元来、そういった、言ってみればスピリチュアル的なことは、私の意識に常にあったように思う。たぶん、幼いころから。そして、すべての地球人がそうであるように、人生の歩みのなかでさまざまな出来事と出会っていくわけだが、そこには、満足もあれば不満足もある。喜び、悲しみ、その両極端のときに、運命というものを考えたりする。
「偶然」というテーマについては、私は、ユングを読んだ。シンクロニシティ、「意味のある偶然」「偶然の一致」だ。
九鬼周造の著書「偶然の問題」は、数年前に知った。が、なんだか難解そうでいまだ手を出せずにいる。ゆえに、入不二基義と森岡正博の「運命論を哲学する」などを読んだりしていた。より楽に読めるものとしては、秋山さと子の著書をいっとき貪った。
いまさらだが、宮野真生子が亡くなってしまったのが残念でならない。「偶然」と「必然」についての彼女の研究を、できれば新書で読みたかった。
そこで「出会いのあわい 九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理」(堀之内出版)という本を都立図書館で借りた。これはいわゆる学術論文なので、ちょっと読書、というわけにはいかない。「あわい」というやわらかいタイトルからはエッセイ的なものを想像しがちだが、「九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理」のほうが本題である。
正直なところ、通読はできなかった。運命論の結論めいた(あくまでも私にとって)箇所のみを拾い読みした。それだけでも、得るところは大きかった。
ちなみに「出会いのあわい」は、2019年9月に出版されているので、宮野の死後に世に出た、ということになる。
加えて、な、なんと、私は2022年に磯野真穂著「他者と生きる リスク・病・死をめぐる人類学」(集英社新書)を読んでいた。なぜ名前を見てすぐに思い出さなかったのか。これに気づいたのは、中島岳志が磯野の新刊本(2024年6月出版)「コロナ禍と出会い直す 不要不急の人類学ノート」を紹介していたからだ。「他者と生きる」は、中島岳志の書評を読んで購入したという経緯があったので、あれ?とひらめいたのだった。
そうだった。私はすでに磯野と出会っていたのだった。
出会い、運命、偶然、必然の問題をさておくとして、余命を宣告されるにせよ、されないにせよ、人が病気になったときの心の状態として、ひどく共感できることが書かれていた。
病気のとき、私は人に会いたくない。会いたいのは自分の家族だけだ。実家とか親類とか友人知人には会いたくない。命ももう短いというときは特に会いたくないかな、と思う。
テレビドラマ「春になったら」(2024年1〜3月カンテレ/フジテレビ)は、余命3ヶ月の父親(木梨憲武)と3ヶ月後に結婚するという娘(奈緒)の物語。死を扱っているがコメディである。このドラマの父親のように、死ぬまでにやりたいことリストをつくって、それを周囲が応援してくれるような環境は、かなり理想的と言えるだろう。
けれどもたいていは、病人��対して他人は実はそれほど優しくない、と私は感じている。家族は親類や他人よりも優しいとは思うが、まあ、それも人によるだろうし、家族の定義をどこまで広げるかによっても違うだろう。
ちょっと話はずれるが、医者もそうだ。人生最後のとき、良い医師に当たればいいが、そうでなかったときにはどうしよう、と今からちょっと考えてしまうな。教育のせいなのか何なのか、良心的な医者のほうが少ないという現実。
なぜそんな身も蓋もないようなことを思うかというと、それはこうだ。
病気になったのには何か原因がある、と人はふつう考える。風邪くらいならどうということはないが、それがいささか重い病だったりすると、人は、どうしてその原因を避けることができなかったのか、と問いかける。すなわち、病人を責めるのである。もしくは病人の家族を責める人たちがいる。例えば、どうしてもっと早く気づかなかったのか(私も言われたことがあります。言われれば自己処罰感覚に襲われます)。悪気はないに決まっているし、おそらく返す言葉のステレオタイプなのか、あるいは残念な気持ちの反射的表現なのか。
インフルエンザになったのは予防接種を受けなかったせい、がんや糖尿病になったのは生活習慣のせいというわけです。
そうやって責められた人たちは、身体の不都合さだけでなく、社会からの責め苦にも耐えないといけません。これは何かには必ず原因があり、しかもそれは合理的判断によって避けられるという、現代社会の信念がもたらす不幸といってもいいでしょう。
(P105)
たとえば、私はガン患者当事者なのだろうけれど、私は患者であることを100パーセント引き受けきれていないし、それを引き受けることが大切だとも思えない。そんな当事者に勝手にラベリングされて落とし込まれたくない、ということはここまでの書簡でも書いてきたことです。
(P136)
本当に勝手に「ラベリング」する人がどれだけ多いことか。もしかしたら私の根性はかなりひねくれているかもしれないが、人は本当に勝手なことを言うものです。あのときあんなことしたからこんなことになったんだ的なストーリーを組み立てる。それは優しさ、ケアからはほど遠いと言わざるを得ない。その言葉に傷つく人がいるとは、当人たちはおそらく全く気づいておらず、この紋切り型を内面化しているのだろう。
こういう人たちは「勝手なラベリング」によって、相手のできることに制限をかけてきたりすることもある。それなりの気遣いなのだろうが、「こんなことできないよね」と決めつけられるのも腹立たしい。とはいえ逆に、デリカシーに欠ける態度を示される失礼もいただけないが。
けれども、こういったことは、病気云々とは関係なく、あらゆる人間関係のなかで起こりうること、起こっていることだとは思う。
私は、人からあれこれ評されて死んでいきたくないので、本当に理解し合える人としか人生の最後は会いたくない。穏やかに死んでいきたいし、死んだあともあれこれ言われたくないので、死んだことを知らせるのはほんの限られた人だけにするつもりだ。そもそもまずほとんど誰にも知らせない、予定。
人は、いつなんどき突然、病気にもなるし、事故にもあう。偶然なのか必然なのか運命なのか…それは分からない。
けれども究極突き詰めていけてば、天上のどこかにそういった各々の人生の物語があって、その通りに進行しているのかもしれない。そしてその物語には、いくつかのヴァージョンがあって、岐路での選択によって別の物語が展開される。
今ある自分の人生とはまったく別の一生を思い浮かべてみる。(略)自分の人生がまったく別のものであった可能性を考えてみることは、私が自分の人生というものを引き受ける上で、大切な思考の手がかりである気がします。
(P23〜24)
重要なのは、「あること」も「ないこと」もありえた「にもかかわらず」、けれど、私はがんになってしまった、ということ。つまり、「にもかかわらず」の反転、逆転こそが、(略)偶然として感じる事柄の実体です。
(P173)
宮野さんが「ないこと」もありえた「にもかかわらず」、がんになってしまったということの偶然を問うのなら、私は宮野と出会わないこともできた「にもかかわらず」、出会ったことの偶然を問い続けてきました。
(P208)
必然性ではどうにもこうにも対処できない出会いと出来事の連なりの背後には、そうでないこともできたあれこれが次々と一致し噛み合う、いくつもの偶然がありました。
(P212)
私はこの本を読んで、「世界は、使われなかった人生であふれてる」という本を思い出した。沢木耕太郎のエッセイ集だ。エッセイ集というよりも、映画評論として書かれたようだが、私としては評論というよりもエッセイに近い雰囲気で読んだので、映画エッセイ、とでも呼ばせていただきます。このなかには、「ありえあたかもしれない人生」について描かれている映画が紹介されている。
もうひとつ、この話題のときに必ず思い出すのが、「キャッスルロック」というアメリカのテレビドラマ。タイトル通り(「キャッスルロック」は「スタンド・バイ・ミー」他に登場する街の名前)、スティーヴン・キング関連のドラマだ。キングの小説(映画)に登場するキャラクターとテーマを組み合わせた謎解きホラー。
ビル・スカルスガルド(「IT」でペニーワイズ役)が演じる別世界(どうやらパラレルワールドのようになっている)から来た青年が、様々な不気味を巻き起こす。もうひとりの主人公で弁護士のディーバーが、この青年に呼ばれて故郷のキャッスルロックに帰ってくるところから物語ははじまる。
そのディーバーの幼馴染で隣人のモリーは、こちらの世界では不動産販売をしながらなかなかシビアな生活をしている。超能力を持っているせいなのか、常に体調が悪い。
そのモリーが、別世界から来た青年に「そちら世界の自分はどんな様子なのか」を尋ねるシーンがある。すると青年は「もっと幸せだよ(happier)」と答える。青年のいた世界でのモリーは市議会議員で、市民たちを積極的に助けるパワフルな女性。こちらの世界のモリーとは天と地ほども違うのだ。
ここでは「ありえたかもしれない人生」「まったく別の人生」が「パラレルワールド」として存在している。
不思議なことに、パラレルワールドの存在に思いを致すのは、自分の人生に不満足を感じている人、感じている時、ではないか?幸せなとき、満足なときに別の人生をおそらく考えることはあまりない。unhappierとは言われたくないし。いや、言われれば、こっちで良かったとか思うのかな。
偶然、必然、運命の問題については、さらにこの本も深く再読して、私自身の考察を深めていきたいと考えています。
余談ですが、宮野真生子と磯野真穂、名前が似ているからなのか、どちっがどっち?と、ときどき錯覚してしまうのが玉に瑕の本です。